【歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第71回】2024年から5000円札の新顔となる、津田梅子
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第71回~津田梅子~
○行動力50%!(正官・偏官)
行動力は、頭で考えるよりも行動で結果を出そうとする星。中でも「正官(せいかん)」は真面目できっちりお仕事をするお役人タイプ。また、女性にとって結婚の星で、持っているといい奥様になれる。「偏官(へんかん)」は、攻撃的行動的な星。野性的で思い立ったら即行動する。ベンチャー企業等の営業マンに向いている。また、女性にとって恋愛の星で、惚れっぽい。梅子はこの2つの星を持ちあわせており、行動力も50%と性格の半分を占めている。
梅子に行動力があったのは納得できる。6歳にして、岩倉使節団とともにアメリカにわたってそこから11年を過ごしたのだ。まだ年少だったので、自分で決めたというよりは渡航経験があり西洋文化に関心があった父・仙の影響があったことはもちろんだろうが、当初、父は姉の琴子に行かせようとした。しかし、琴子は家を離れることを望まなかったため、行くことを望んだ梅子を海外留学に送ったという。
女子留学生の欧米派遣は黒田清隆の発案だが、留学期間は10年で、政府が旅費、学費、生活費の全てを負担するというものだった。今であれば人気殺到しそうなものだが、当時、女性の平均結婚年齢が20歳以下だった時代、この企画はあまりに度を外れた考えだったのだろう。第一回目の募集で希望者を集めることはできなかった。2回目の募集でようやく整い、最年少の梅子(6歳)、永井繁子(8歳)、山川捨松(11歳)ら5名が渡米することになったのだ。そのうち2名は健康上の理由で1年以内に帰国したが、梅子、繁子、捨松はアメリカでの留学生活に適応することができた。あまり考えずにまずは動く!この行動力が梅子を海外生活に適応させたのだろうか。
また、先に述べたように、この星は、結婚、恋愛の星でもある。いい奥様になれるタイプだ。しかし、梅子は数々の縁談を断り、生涯独身を貫いた。梅子は11年間、ホストファミリーのランマン夫妻を見て育ってきたが、両者が対等だった夫婦関係と異なり、良妻賢母として夫に尽くす日本女性の結婚に疑問を感じていた。また、梅子は日本において唯一の恋愛結婚は、階層の高い男性と芸者の間においてしか成立しないと推察していた。「男性が女性宅を訪問することが許されず、男女が出会う社交の場もない状況でどうして恋愛結婚ができるのでしょう」と嘆き、愛が介入しない結婚は絶対しないと宣言していた。つまり、梅子は、結婚をしたくなかったのではなく、「愛のない」結婚を望まなかったのだろう。逆に言うと、それだけ結婚に対して思い入れも強かったものと推察される。生涯独身を貫き、浮いた話も聞かれない梅子であるが、「偏官」を持つ梅子は、きっと惚れっぽかったことと思う。人知れず恋心を抱いたこともあったろう。しかし、そんな恋心を封印しても日本人女性教育に力を注いだのだ。
〇遊び心40%(傷官2つ)
遊び心は、生活に自然と遊びを取り入れることができ、芸術性も高い。中でも「傷官(しょうかん)」は、きれいなものが好きで芸術性が高いが、ガラスのハートの持ち主。感情の起伏が激しく、特に女性は男性に対して強くモノを言ってしまう傾向がある。
「傷官」を2つも持つ梅子。ナイーブで傷つきやすい一面も持っていたのだろう。梅子は同じく官費留学生である、繁子、捨松と3人で結婚に対して真剣に話し合ってきたという。日本の結婚観に対して否定的な考えを持っていた3人であったが、まずは一足先に帰国した繁子の結婚が決まった。これには捨松とともに落胆したという。しかし、そんな捨松も、恋愛と教職を諦め、社会的地位、影響力、経済力のある大山巌と結婚することになる。梅子は深い失望と孤独感を味わった。梅子はその時の思いを鬱々とホストマザーであったアデライン宛ての手紙に綴っている。しかし、そんな孤独を乗り越え、やはり梅子は「どんなに貧しくても独身を貫き、自立し自由な生活を」送ることを決心したのだ。なんと強い女性だろう。
※「傷官」+「死」の組み合わせを2つ持っている!
「傷官」と「死」の組み合わせは、「スピリチュアル」を意味する。梅子はこれを命式に2つも持っている。あまり現世に興味がなかった、つまりお金を稼いだり家族を作ったりすること以上に、梅子は天に動かされ、宇宙的な考え方を持っていたものと思う。もしかしたら、天の声が聞こえたり、私たちに見えないものが見えていたりした可能性がある。
〇人脈10%(偏財1つ)
人脈はコミュニケーション能力が高く、誰とでも仲良くでき人脈も広い。中でも「偏財(へんざい)」はピンからキリまで幅広い友達がいる。もちろん、性格は「行動力」「人脈」「知性」「人脈」「自立心」「遊び心」を全て持っていることが望ましいが、梅子の場合、偏りが見られる。「知性」と「自立心」を持っていなかった梅子にとって、人脈に支えられた部分が大きかろう。
2度目の留学から戻り再び華族女学校に勤務していた梅子は、1900(明治33)年、35歳で「女子英学塾」(後の津田塾大学)を東京の麹町に開校。この時、父・仙のほか、アリス・ベーコン、大山巌、山川(大山)捨松等大勢の人物の協力を得た。アリス・ベーコンは留学中に捨松を引き取ったレオナルド夫妻の娘で、捨松とは姉妹のように一緒に育った。女性英学塾ではボランティア講師を務め、塾の家賃も支払ってくれたという。捨松も寄付金の募集に全力を尽くした。こうして人に支えられ、長年の夢であった学校設立を実現したのだ。
〇知性0%
知性は、様々な知識が豊富で、論理的に物事を捉えるのが得意な星。意外にも梅子はこの星を持っていなかった。
梅子は再び渡米すると、フィラデルフィア近郊のリベラル・アーツ・カレッジにて生物学を専攻。なんと、3年間の過程を1年で修了した。留学2年目にはカエルの発生に関する論文を執筆する一方、教授法に関する研究を州立オズヴィゴ師範学校で行った。そんな梅子に知性がなかったというのは意外だ。しかし、梅子の性格は、知性というよりも行動力の賜物だったのだろうか。逆に言うと、あまり深く考えずに行動できたからこそ、思い切って留学にも行き、学校も作れたとも考えられる。